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天守台に新幹線が刺さってる!? 小早川隆景築城の三原城は新幹線駅徒歩0分の日本一便利な城だった

初のたびLog、これまでタビヌリエメンバーと行ってきた、計画的なのり旅の紹介をしようと思いましたが、つい最近たまたま訪れた山陽本線三原駅が自分の心にズキュンと来てしまいました。書かせてください。

予定外のレールスターと三原駅での途中下車

予定していなかった途中下車というのはあるものです。翌日朝からの出張に備えて現地に前入りしようと(そして交通費を浮かそうと)、大阪市内から東海道本線に乗って西に向かおうとしましたが生憎の遅延。広島県内まで在来線で向かうつもりが、このままでは終電に間に合いません。

…少しだけ新幹線使おう。

停車駅の少なさは優等列車並みの新快速が走っている姫路までは在来線を使い、そこから、自由席特急券が3千円以内ギリギリの三原まで新幹線に乗ることにしました。今では珍しくなった700系レールスターのひかり539号、これなら23時には目的地に着けそう。睡眠時間も確保できそうです。
三原駅の案内板
ひかりレールスター

ところがどっこい、本日の宿泊先から着電。「22時から24時まで不在にするから、遅くなるなら24時以降にしてくれ。」とのこと。まっすぐ向かうと深夜の1時間何もない駅で待ちぼうけです。新幹線にはもう乗ってしまった。

…まだしも大きい街であろう三原駅で途中下車して時間を潰すことにしました。
三原駅ホーム

天守台口ってなんだ?

夜22時を過ぎた三原駅、下車したのは私とあと一人。駅員さんに途中下車のため乗車券を見せつつ、この後の下り山陽本線に遅れがないことを確認します。最終列車は23時27分発、約1時間何をしよう?

そんなことを思いつつ改札を出ると、出迎えてくれたのは鉢巻を付けたちょっと凛々しいだるまさん、そして、何だかわからないけど「らっきー神社」。ほかにも駅員さんの力作なのでしょうか、何だかオブジェクトが多い駅です。駅事務所は踊り狂ってるし。
オブジェ1
オブジェ2
オブジェ3
踊り狂うドア

過ぎ去りし昭和のかほりをどことなく残した駅コンコースを見渡すと、次に目に飛び込んでくるのは「→三原城天守台跡」の文字。別の方向を向くと西口(隆景広場)の表記。
…ほお、駅の近くに城跡があるのかな。昔からの町の中心に駅があるのだろうな。
…小早川隆景ゆかりの地か。毛利元就の子供の名前を見るとはずいぶん西に来たもんだ。
などと徒然思いますが、その下にある時間表記には小さな違和感が。「6:30~22:00」ん?随分長くないかい?セ〇ンイ〇ブン並みだぞ?
隆景広場案内板
三原城址案内板

矢印の指すほうを見上げるとちょうど駅員さんがシャッターを閉めにくるところ(現在時刻22:35)ちょっと残念ですが、城跡まで歩きたくはないし、大抵その手の(元)施設は坂の上。キャリーバッグを引きずって行くところではないと、諦めて反対側の出口へ向かいました。

駅を出ると、大抵の地方の駅にはある駅周辺の案内板を見ます。「定期市内航路図」は関東平野で生まれ育った私にはなかなかワクワクするワードです。瀬戸内に来たと実感。横に目をやると駅前の案内図。駅の周りには何があるかな…っと、
「天守台出口?」その出口出た先はどこにも通じてなくないか?それどころか水に囲まれている。
定期市内航路図
駅周辺図

……! この駅、城跡の真上に建ってる!?しかもそこは城の中心。天守台だ!!
先ほど見た「→天守台跡」の看板。その先は、城の心臓部に直結、むしろ駅からしか登城できないお城だったのです。

これは、中に入れずとも外から見に行かねば。在来線と新幹線の並ぶ幅広い高架をくぐって駅の反対側に向かいました。

堀に囲まれた戦国時代の石垣が残る天守台に新幹線が刺さってる!

駅の西側の高架をくぐり始めた時点でおかしいと思いました。くぐった先に石壁があります。石壁というには石が大きいです。これは岩です。岩が並んでます。

線路の北側に出て、後ろを振り向くと、そこには想像以上の光景が待ってました。
整然と積み上げられた石垣の郭にまっすぐに突っ込んでいく新幹線駅。
水堀を挟んだ石垣の上は元々の天守台。城の最中心部、本丸です。そこに俺が天守だとばかりに鎮座するのは、現代の早馬、山陽新幹線の三原駅です。
三原駅隆景広場

駅の北西側は広場になっており、そこが先ほど見かけた隆景広場なのでしょう。
小早川隆景と思わしき銅像が中央に設置されています(ちなみにこの銅像向いているほうは新幹線から少し視線をずらした天守台の方向です)。
隆景広場

人通りも少ないので、夜中にキャリーバッグを引いた怪しい姿でしたが、パシャパシャと写真を撮らせてもらいます。線路と直行する方向の堀端も公園になっており、何枚かの説明版があります。それによるとこの広場は元々西国街道の一部だったようで、発掘調査を元にある程度往時の姿が復元されているそうです。西国街道といえば、西日本の幹線道路、今でいうなら国道2号線です。三原城というお城は、昔も今も日本の交通の要所をしっかりと押さえる位置を担っています。
西国街道跡

一つ面白い構造物と感じたのは、広場(すなわち西国街道)のお堀端、護岸の石垣が地面よりも5~10cm程度高い位置まで設置されています。案内板によるとこれは、西国街道の土が堀へ崩れ落ちてきてしまうのを防ぐほか、旅人が堀に落ちないために施されたものと推定されているようです。柵や塀は設置された痕跡はなかったそうなので、この小さな段差が酔っ払った通行人を止める最後の砦だったよう(足を引っかけて転げ落ちる罠にもなりそうですが)。
お堀端の構造物

そんなこんなで広場をうろうろしていたら、無人と思っていたお堀端の武家屋敷の長屋門を模した東屋から人影が。ごめん、高校生。静かなデートスポットだったのを邪魔してしまったようです。静かで人目に付きづらく、ふたりでゆっくりおしゃべりするには良い穴場だと私も思います。

異なる時代を感じる石垣のトンネルをくぐると…

天守台周辺のお堀はぐるりと回っても2~300mほどでしょうか。まだ時間はあるので反対側まで回ってみたいと思います。この時、見るべきは今までいた天守閣の西側とこれから回り込む東側では、天守台の石垣の様相が異なること。西側では、表面や角が丸い自然の姿に近い石の表情が見え、角の部分も北西側は石の向きも縦横まちまちな朴訥とした様子です。一方で東側では、1個1個の石の表面が平らに削られ、角部分も同じ方向にそろった医師がきっちりと隙間なく並べられた端正な様子。これは前者が戦国時代の小早川隆景の時代のもの、後者が江戸時代初頭の福島正則によるものであるためとのことで、技術の進歩を感じられます。
西側石垣
東側石垣

東側の石垣は新幹線の高架にぶつかったのち、数10m新幹線と並走しています。この石垣にはトンネルが穿たれており、そのトンネルはなんと、そのまま駅の入り口なのです。お城の石垣のトンネルから覗くは「新幹線」の文字。お城に入ったと思ったらそこは駅だった。そして、登城するには駅の中を通っていくしかないのはここ以外例はないのではないでしょうか(あるならば教えてください)。
石垣に穿たれたトンネル
城から新幹線方面

この出入口(北口)に記された駅の住所は「城町一丁目1-1」。ここが城の中心であることを住所表記の上でも示してくれました。
住所表示

こうして、三原駅での1時間の暇つぶしは興奮のうちにあっという間に過ぎていき、気づけば広島方面の終電の時間に。私は思いがけない面白い駅との遭遇に大満足のうちに三原を後にしました。(目的地に到着したのは24時過ぎ。翌日の仕事が睡魔との戦いだったのは言うまでもありません)

なぜ天守台の上に駅が立つことになったのか

ここからは調査編。

三原城は永禄十年(1567年)ごろに小早川隆景により築城された海城で、周りを水に囲まれていたことから「浮城」の別名を持ちます。他の地方では城の立地は山の上の防御に固い土地や商業と交通の中心となる平野の中心部であることが多いですが、瀬戸内においては数多い小島に睨みを効かせ、水上交通を掌握する意味で、海辺にほど近い位置に城が置かれることが多かったようです。三原は陸上交通の幹線である西国街道と因島方面への海路の結節点でもあることから、今も昔も交通の要所です。三原城はそのような要衝の防御施設であるとともに小早川水軍の軍港でもありました。

このような重要地点に置かれた三原城、江戸時代に入ると始めは先に触れた福島家、その後は浅野家と広島藩の支配下となります。しかしその後も一国一城令の例外的な立ち位置で存続し、明治維新を迎えることとなります。現在、その一部が三原駅となっている天守台は、江戸城と同等の広大なものですが、実際に天守閣が築かれたことはなく、本丸御殿が存在したとするのが定説であるようです。

以上のような経緯、海陸の要衝の地に大きな建物がない広大な本丸を持つという特徴から、明治時代に入り三原城に海軍鎮守府を置く計画が持ち上がり、城地は明治政府のものとなります。しかしながら、三原城の近海は土砂の流入によって大型船が入れなくなる可能性が指摘され、結局鎮守府は呉に置かれることに。以後、城地の樹木、建物は競売され、空き地となったようです。この結果、西国街道に沿って、山陽鉄道が明治27年(1894年)敷設された際にその地を駅用地として活用することになりました。

さらには、まだ本丸部分の土地が余っていたために、昭和40年(1975年)の山陽新幹線開通時には尾道と駅の誘致合戦が繰り広げられますが、在来線と隣接し、町中心部に駅を設置可能な三原に新幹線駅が建設されることとなります。現在の新幹線が城本丸を貫く構造はこの時生まれることとなりました。尚、この競争に敗れた尾道は新尾道駅開業が13年後となり、建設費62億円が地元負担となったことから、三原城があればこその新幹線駅ともいえるでしょう。

このような経緯から生まれた本丸を新幹線駅が貫く三原駅、その特異な構造は機会があれば一見の価値ありです。駅すぐそこですから、短い乗り継ぎでもその光景を十分堪能できる点もGOODです。